どうもGLAYファン・GLAY速報の*あっきぃ*(@_r_y_g_y_r_)です。
GLAYファンからはいろいろ意見出そうですがね。
メジャーデビューしてからの話にします。
好きなところから読む
GLAYはドラムなし4人
1994年デビュー。メンバー変更もなしです。
サポートドラムはデビュー1年後から今まで永井利光(TOSHI)、
キーボードは数人の変遷です。
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現在も精力的に活動中
後述しますが、一時期よりもメディア露出はかなり減ったものの、
メジャーレーベルからの独立を経て、現在はライブやリリースを中心に精力的に活動してます。今でも東京ドームのライブでは2日間満員になるなど、固定ファンが多く、
むしろ、大衆向けよりもファンに向けての活動が多くなりました。
そして、1度も解散していないし、「解散しない」とライブでも度々宣言してるのはファンにとっては嬉しいことです。
ビジネス的に言えば、ライフタイムバリュー重視の活動になったってことですね。
大きく分けると5つの時期
- YOSHIKIの七光りと言われたけど売れなかった期
- メジャーアーティストへの飛躍期
- 世界へ目を向ける、反戦期
- 独立期
- 社会活動期
YOSHIKIの七光りと言われたけど売れなかった期
YOSHIKIプロデュースによりデビュー。
YOSHIKIファンからは、「YOSHIKI七光り扱い」と言われ嫌われたデビュー期。
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この頃に出したシングルやアルバムは、インディーからの流れもあって、
GLAYの楽曲の多様性がわかる。
メジャーアーティストへの飛躍期
シングル「グロリアス」、アルバム「BEAT out!」の初ヒットから順調にメジャーアーティストへ登る時期がきます。
グロリアスとBEAT out!
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本作のリリースを2ヶ月半先延ばしにし、先行リリースとなった8枚目のシングル「グロリアス」の後押しもありオリコン1位。
これがブレイクのきっかけになり、CDバブル1)と言われた時代の後押しもあって知名度を上げていくGLAY。
この時期から、世間的には、お茶の間ヴィジュアル系になっていったし、
アンダーグラウンドなV系を好きな人にとっては、敵視される面もある。
楽曲の方向性やメンバーの志向もあって、
J-POPに区分されることが多いし、本人たちはそこにはこだわっていない。
売れだしてからは、現在のGLAYの代名詞とも言われるスピード感ある8ビートが多くなった。
これは売れるために、キャッチーな曲を多く書いていったっていうことでもある。
古株または昔のファンがいう「GLAYって変わった」という言葉は、これが理由の1つ。
REVIEWのバカ売れからの勢い
BEAT out!以降、出すものなんでも売れる感じになっていき
ライブツアーの規模も大きく、長くなっていった。
その最中に出した最初のベストアルバム「REVIEW〜BEST OF GLAY」
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このアルバムは、後のベストアルバムブーム2)のキッカケとなる。
pure soulだけでホールツアー、アリーナツアー、ドームツアー
この時期で外せないアルバム「pure soul」
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売れた後のGLAYの垢抜けた感(メジャー感)と勢いがストレートに出てきてます。
マストバイですね。
「pure soul」はこの時期のGLAYのテーマでもあるワード。
順調にメジャーアーティストの階段を昇っていく中での、GLAY、TAKUROの信念や葛藤でもあると思います。
どんなに売れても、変わらない自分たち、変わりたくない自分たち、
それを再確認するためのタイトル、それが「pure soul」です。
GLAY EXPO’99 (20万人ライブ)
このライブが1つの大きなターニングポイントになった。
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20万人ライブという大きな目標を終えた後の虚無感と、
自分たちの力だけでは、コントロールできなくなってしまうほど大きくなってしまったGLAY。
紅白出場、アルバムの500万枚セールスなど、次々とビッグドリームを手にしていったGLAY。過密なスケジュールというのもあり心身ともにかなり疲弊していた。
純粋に音楽を楽しみたい自分たちと、
商業音楽化していくGLAYとのギャップに違和感を感じたこの時期に、解散という話が1度出た。
HEAVY GAUGEツアーと解散騒動
GLAY史上、最長・最多の全国ツアー。2000年4月から11月まで、間に小休止は入ったものの、シークレットライブなども含めほぼ一年間ライブをしていた。
99年〜2000年はGLAYにとって変化の兆しを見せた年でもあった。
このツアーも、アリーナ規模にもかかわらず花道がない、大きな演出がないなど、ショーアップされた公演ではなく、
「ロックバンド」としての何かを提示したがっているように見える。
GLAYの中でも取り分けポップアイコンとなっていたJIROは、
ステージプランへの意見、ライブのセットリストなども中心となって考えていた。このツアーのコンセプトもJIROからの発案だった。
20万人ライブ以降、大きな夢を失ったGLAYの中でJIROはもがいていた。
「GLAYは人気商売のバンドなのだろうか」
「自分がやりたい音楽はこういうことなのだろうか」
「夢を失ったGLAYにいていいのだろうか。」
「GLAYの人気商売的側面を自分が担ってしまっている。それを取り戻すのも自分のやらなければいけない」
「自分が考えたプランが全て失敗だったら」
いろんな葛藤が彼の中にはあった。
これが後に「バンドを抜けたい」というJIROの発言につながり
解散の話のキッカケとなった。
バンドを抜けたいとJIROが言った時期から
当時の彼女(今の妻)に救われた心境を書いたのが「TIME」という曲。
このあたりの話はこの本に書いてあります。
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ここまでがざっくり、デビューから5年目までの流れです。
そして、ここから独立への動きが加速していきます。
平成元年生まれ。
1997年 小学3年の時にHOWEVERで衝撃のGLAYERデビュー。
それからHISASHIに憧れギターを初める。もちろん使用機材はTalbo。
ライブ参戦よりもコレクター気質。
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